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名古屋地方裁判所 昭和46年(ワ)280号 判決 1975年10月22日

原告 丸山利之

右訴訟代理人弁護士 花田啓一

同 長屋誠

被告 全日本労働総同盟愛知地方同盟

右代表者会長 朝見清道

右訴訟代理人弁護士 福永滋

同 福岡宗也

主文

一、原告が被告の書記及び教宣部副部長としての地位を有することを確認する。

二、被告は原告に対し、昭和四五年一二月二五日以降毎月二五日限り一ヶ月金六六、〇〇〇円の割合による金員及び右各金員に対する毎月二六日より完済に至るまで年五分の割合による金員を各支払え。

三、原告が被告の執行委員の地位にあったことの確認を求める訴を却下する。

四、訴訟費用は被告の負担とする。

五、この判決は第二項に限り仮に執行することができる。

事実

第一双方の申立

一  原告(請求の趣旨)

(一)  主文第一、第二、第四項と同旨の判決及び仮執行の宣言。

(二)  原告が昭和四五年三月三〇日から昭和四六年三月一八日までの間被告の執行委員の地位にあったことを確認する。

二  被告

(一)  原告の請求を棄却する。

(二)  訴訟費用は原告の負担とする。

第二請求の原因

一  (当事者)

(一)  被告は、愛知県下に約七〇〇の加盟組合、約一七万人の傘下組合員を擁し、全日本労働総同盟(以下「同盟」という。)の憲章の下にその方針に従い「同盟の組織拡大をはかり、これを産業別に整理するとともに、加盟組織およびその他の労働者の共通の利益をまもり、相互の連絡・統制・協力の促進等について、有効な措置を行なうこと」を目的とし、肩書地に事務所を置く法人格なき社団である。

(二)  原告は、昭和三七年七月一日東海臨港開発株式会社から出向員として被告の前身である全日本労働組合会議(以下「全労」という。)に派遣され、オルグとして活動していたが、昭和三九年一一月被告が結成されると同時に出向員の身分のまま被告の書記局に入り引き続きオルグとして活動していたものであるが、昭和四〇年一〇月一日被告から正式に書記局員として雇用され、昭和四二年三月に始めて執行委員に選出された後、昭和四五年三月三〇日被告第六回定期大会においても執行委員に選出され、後記本件解雇当時は執行委員、教宣部副部長の地位にあったものである。

二  被告は、原告に対し、昭和四五年一一月二九日内容証明郵便により原告を解雇する旨の意思表示(以下「本件解雇」という。)をなした。

三  本件解雇は次の各理由により無効である。

≪以下事実省略≫

理由

一  請求の原因一項・二項の事実はいずれも当事者間に争いがない。

二  (被告の構成)

≪証拠省略≫によれば次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

被告は、昭和三九年一一月一九日全日本労働総同盟の憲章に基づきその運動方針を地方で消化・実践するために結成され、中央の産別組織に加盟する愛知県下の地方産別組織及び中央に直接加盟している単位組織等をその構成組織とし、規約上の機関として大会、評議会、執行委員会を有し、年に一度定期大会を、また評議会は一年に約三回、執行委員会はおよそ月一回それぞれ開催している。また規約九条六項に基づき執行委員会のもとに組織部、教育宣伝部(教宣部)、調査部、政治部の四専門部が設けられそれぞれの日常業務の処理にあたっており、規約に定めはないが必要に応じ正・副会長及び正・副書記長で三役会を、また前記四専門部の各部長も含めて三役専門部長会議をもち執行委員会に提案すべき事項等を協議している。

書記局は、規約一三条に基づき、書記長の統轄のもとに被告の業務執行上必要な業務を処理するため設けられ、書記局には必要に応じ書記(以下「書記局員」という。)をおくことができ、その雇傭、解雇は評議会の議を経て会長が行なうものとされている。書記局員は本件解雇当時原告を含め九名(うち女子二名)いたが、そのうち村山書記長、岩見組織部長、星野教宣部長、三戸政治部長、吉田太郎、吉田正一及び原告ら男子書記局員は例外なく各構成組織の推薦によって採用されており、オルグ活動がその主要な任務であることが当然の前提とされ、被告の専従職員として常勤し、オルグ活動のほか、三役会で諮るべき事項の立案計画をするための書記局会議を構成し、さらに専門部のいずれかを担当してそれぞれの方針の立案・計画及び執行にあたっていた。

三  (いわゆる一一事件について)

≪証拠省略≫によれば次の(一)ないし(七)の各事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(一)  柴原木造船事件

昭和三九年柴原木造船における労働組合(以下「労組」という。)分裂に伴い、当時全労のオルグであった原告は内藤俊次事務局長の指示のもとに現地に派遣されたが、同所で暴力事件が発生して熱田署が出動する事態となった。また、原告は同会社から労務課長に薬罐のぬるま湯をかけたことなどを理由に暴行等で告訴された。(昭和三九年柴原木造船における労組分裂に伴い原告が全労からオルグとして現地に派遣された事実は当事者間に争いがない。)

(二)  大治自動車学校事件

昭和三九年一一月大治自動車学校労組が結成され、原告が前記内藤の指示によりその支援に出かけたが、右労組が分裂して種種のトラブルが生じていた際、原告は社長室へ押し入り「分裂はお前らの差金だ。人民裁判にかけてやる。」と血相を変えて社長に怒鳴ったりし、さらに、右労組からの脱退者にユニオン・ショップ協定に基づく除名処分で対抗するため、内藤の指示により組合大会を開催し除名決議を行なわせたが、その際不正な票読みをし、後に被除名者から地位保全の仮処分申請がなされ、申請どおりの決定が出、結局同労組は消滅するに至った。(昭和三九年一一月大治自動車学校労組が結成され、原告がその支援に出かけたことは当事者間に争いがない。)

(三)  挙母タクシー事件

豊田市昭和町に本社営業所を有する挙母タクシー株式会社においては、従来従業員は交通労連中部地方本部傘下の労組を結成していたが、これが分裂して第二組合が結成され、昭和四一年春の賃上げ斗争においては第二組合との間に会社が回答額に差をつけるなどしたため、第一組合は会社の不当労働行為の撤発等を要求し、同年五月一三日、同月一八日以降状況によりストライキに突入することを会社に通告するに至った。

原告は、書記局員吉田太郎(挙母タクシー出身)から、書記局内で同会社の争議について聞き及んだことがあったが、同月一九日愛知県西加茂郡三好町所在の三好家具団地(愛知家具団地)労働組合連合会の支援に愛知一般化学のオルグ団とともに出かけた際、近くにあった右本社営業所に赴き、同会社第一労組員から会社が前日一方的にロックアウトを宣言し第一労組員のみから車のキーや車検を取り上げ、就労させない現状であることを訴えられた。

翌二〇日、三好家具団地の争議が解決し、前記オルグ団とともに昼食をとっていた際、「挙母タクシーに応援に行ったらどうだ。」という話になり、吉田太郎運転のマイクロバスで約二〇名のオルグ団とともに右本社営業所に赴いた。同所では正門前で第一労組員が「社長さん、仕事を下さい。」等と書いたプラカードを立てて就労要求をしていた。

同日午後二時四〇分頃、原告は同会社事務所に赴いて、那須社長をその左腕を掴んで引っ張るなどして事務所から連れ出そうとしたが果せず、さらに隣にいた都築課長を連れ出そうとして、同課長の腕を引っ張り体を振り回すようにして車庫の中央まで連れ出し、同第一労組員ら一〇数名らと同課長を取り囲み「お前もやめたらどうだ。辞表を書け。」などと大声で叫び、同課長の胸倉を掴んで振り回したり、同第一労組員加納、長谷川らとともに同課長を押したり突き離したりなどして暴行を加えた。

同所には前記交通労連中部地方本部の安井オルグもいたが、原告らが都築課長に暴行を働いている時は那須社長と話をしており、また、右暴行の状況を見ていた吉田太郎もこれを制止しなかった。

その後、同月二五日に至り、挙母タクシーにおける争議は一応全面解決に至ったが、一方豊田署は右暴力事件を集団暴力の疑いありとして、同年六月三日原告、安井及び柴田挙母タクシー労組委員長を被疑者として取調べ、同月末には同労組員前記加納、長谷川らを出頭させて取調べた。これに対し被告は、右争議の発端や経過からして警察当局の不当介入であるとして種々の抗議を行なったが、結局原告のみ名古屋地方裁判所岡崎支部に暴力行為等処罰に関する法律違反で起訴され、昭和四四年七月一八日罰金二万円の有罪判決が言渡され、被告は三役会で控訴断念の結論を出し、原告もこれを呑んで右判決は確定した。(当時、挙母タクシー労組と会社が斗争中であり、原告が右オルグ団とその支援にかけつけたこと、被告が豊田署に右のような内容の抗議をしたこと、原告が起訴され罰金二万円の有罪判決を言渡され、同判決が確定したことは当事者間に争いがない。)

(四)  山崎鉄工労組事件

昭和四二年三月中立組合である山崎鉄工労組の組合員との間に、被告加盟の働きかけのため原告及び豊田紡労組書記長で大口町議会議員である堂地が中心となって懇談会を催す運びとなり、書記局員らが出席して開かれ、飲酒しながら懇談することになったが、その際原告は酔っ払って組合員らに対し執拗に酒を勧めたり、「いつまで中立でおるのだ。」などと大声で言ったりしたので、その場の雰囲気が気まずくなるのを察知した岩見組織部長が吉田太郎に命じて原告を送って帰らせ、右懇談会はまもなく閉会された。(右のような経過で懇談会が催されたことは当事者間に争いがない。)

(五)  大東産業事件

昭和四二年一〇月一七日全繊同盟愛知県支部が豊橋市所在の大東産業株式会社の経営者に対し説得活動を行なっていた際、同会社入口付近でオルグ団と会社側との間で乱闘となり原告も同所でこれに巻き込まれ殴られてその場に転倒した。この事件で被告側からも原告や吉田太郎が被疑者となり取調べを受けたが、会社側と被告との間で示談が成立して原告らは起訴猶予処分となった。

(六)  紙治事件

紙治株式会社の従業員に対する組織化工作に一般同盟の梶書記長及び原告があたっており、昭和四四年七月二八日に八名の結成準備委員を選出し同年八月四日には労組結成の段取りであった。梶書記長は準備委員らにさらに他の従業員に加盟の働きかけをすることを指示していたが、原告は不用意に会社の経営者と親戚関係にある者に労組参加を呼びかけ、同人から拒否されるや「経営者にばらすなよ。」などと同人を脅した。結局、労組結成は失敗に終った。(紙治株式会社に原告がオルグとして出かけており、昭和四四年七月二八日に八名の準備委員を選出し同年八月四日に労組結成の段取りであったことは当事者間に争いがない。)

(七)  ホテイパン事件

興和紡労組江南支部長川瀬を通じてホテイパン従業員に対する組織化工作が昭和四四年当初より行なわれていたが、労組結成が遅々としていっこうに進展しないため、原告はホテイパンの専務に面会して、同専務に対し「作るのか作らないのかどっちだ。」「作らなければ宣伝カーをぶち込む。」などの脅迫的発言をなした。

(八)  他の大同健保、富士家具、愛知家具団地、徳山工業の各事件については、≪証拠省略≫はたやすく措信できず、他に原告が右各事件において暴力的行為をしたり、オルグに失敗したと認めるに足る証拠もない。

四  (本件解雇に至る経緯)

≪証拠省略≫を総合すれば次の事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(一)  原告は全労時代内藤事務局長以下女性書記二名を含む計六名の数少ない専従役員の一人として、全労の組織拡大に努力して一定の成果を上げ、被告発足とともにそのままオルグとして残り、昭和四二年に組織副部長になるまでは、星野部長のもとに教宣部副部長の地位にあった。

教宣部は、傘下組合員に対する教育、宣伝、啓蒙活動をその任務とし、労働講座、各種研修会等の学習活動及び文化活動の企画、実行並びに新聞や情報の発行によるPR活動、さらに婦人活動の企画、実行等を行ない、そのために書記局を中心にして教宣部員会をもって右各種活動の円滑な運営を図っていた。原告はその中で主として婦人活動関係を担当していたが、当時は未だ被告が結成されて日が浅く組織化活動が重視されていたので、オルグとしての活動が大きな比重を占めていた。

(二)  昭和四二年三月一六日被告第三回定期大会において「二〇万組織に拡大しよう。」というスローガンのもとにその実現のため尾張、三河両地区に専従オルグを配置し、県下主要地区に地区同盟を組織することとし、原告が尾張担当オルグに吉田太郎が三河担当オルグに選任された。

当時、尾張地区では西春日井、尾西において地区同盟が未結成であったが、昭和四二年七月西春日井に、昭和四三年三月尾西にそれぞれ地区同盟が結成された。また、同年一〇月一八日には尾張担当オルグ常駐を図るため全繊同盟一宮事務所を借りて尾張事務所が開設された。この間、昭和四三年二月二八日に開催された第四回定期大会において、組織関係について「尾張、三河地区担当オルグを派遣したことにより各単組と愛知同盟の結びつきをより強化することができた。」と一応の評価がなされ、翌四四年三月二〇日に開催された第五回定期大会においても「東海地区担当の中央オルグ、三河尾張地区担当オルグによる地道な活動は、各所に同盟路線を指向する動きを生むなど、一段の努力と方針の明確化が必要とされている。」との活動報告がなされた。

原告は前記一宮事務所を中心に尾張担当オルグとして活動中、稲沢の中央自動車学校労組、一宮の三井堂労組、津島の旭自動車学校労組及び徳山工業労組をその関与のもとに結成させた。

(三)  被告においては、前記挙母タクシー事件等の不祥事を起した原告の適当な引き取り先を模策していたが、昭和四四年一月同盟全国大会の際、朝見会長は原告の出身組合である全日本海員組合九州支部長小川らに対し、原告を同組合に引き取ってくれるよう要請したが、同人らは原告が同組合からの直接の出向者ではないことなどを理由にこれを拒絶した。

さらに、同年七月一八日挙母タクシー事件について原告に有罪の判決があり、この頃朝見会長、村山書記長ら幹部は原告を書記局に留めておくのは適当でないとの判断に達し、岩見組織部長が同年秋、原告に対し、挙母タクシー事件や原告が警察、経営者に評判が悪いことなどを理由に円満に退職するよう勧告したが、原告はこれを拒否した。また、ちょうどこの頃、民社党愛知県連から党の拡大強化、被告との協力関係推進を図るため、また総選挙を間近に控えていたこともあって、被告に対し同県連への出向者を出して欲しいとの要請があり、被告は三役会で検討の結果、原告に気分転換をさせ新しい面を開発させるにも良いということで原告を適任とし、その承諾を得て同年九月一六日第六二回執行委員会で、原告を一〇月一日付で右県連に出向させること、及び、原告の後任として尾張担当オルグに吉田正一を配置することを確認した。ところが、その後同県連側が当初示していた原告の出向条件を変え、原告に不利益となることが判明したため、被告から右出向を中止することにし、同年一一月一〇日第六三回執行委員会において右出向中止及び原告は書記局勤務とし教宣部のもとで青婦対策を担当し、吉田正一を尾張担当オルグとすることを確認した。(原告が民社党愛知県連への出向に承諾したが結局実現に至らなかったことは当事者間に争いがない。)

(四)  右の経過で書記局勤務に戻った原告は、書記局内でオルチョカブや麻雀等の賭博行為が被告役員のほとんどの者により連日のごとく行なわれているのをまの当たりに見た。

(1)  オイチョカブは、トランプで行なわれ、まず親を定め親がカードをよく操って裏返しにテーブルの上に置き、他の参加人のうちの一人が重ねられたカードの適当な枚数を取りそれを残りのカードの下に廻すか、或いは、カードを指で押えて了解の意を表わすかして親が配り始めるべきカードの順序を決定したうえ、親が四枚のカードを表向きに並べ、他の参加人がそれぞれ自己の判断でそのうちから適当なカードに現金を張り、そこで親が二枚目ないし三枚目のカードを配り、それらを合計した数の一桁の数字が九に近い程有利という形で、親との間で勝敗を決するゲームであり、一度に千円以上の現金が動くことも少なくなかった。メンバーは村山、星野、岩見らを中心に原告を除く他の書記局員や各産別のオルグなどの者で、昼休みを中心に勤務時間内に行なわれることもあり、場所は応接間が使用されることが多く、時には応接間に鍵をかけて行なわれることもあった。

一方、麻雀はいわゆる点五(プラス一につき五〇円)の賭け率で行なわれており、メンバーは前記オイチョカブのメンバーのほか朝見会長も加わり、書記局の勤務時間外(平日は午後五時以後)や土曜日の午後に行なわれることが多かったが、これも勤務時間内に行なわれることもあり、特に平日の午後四時を過ぎると始められることがしばしばあった。場所は原告が現認した範囲ではほとんど被告肩書地ビル内の三階和室が使用されていた。

(2)  右のオイチョカブ、麻雀はしばしば業務に支障を及ぼすことがあった。例えば、

① 昭和四四年六月安保改定民主主義を守る愛知県民集会には被告からの参加要請に応じた組合役員や組合員らが結集していたが、この時星野と三戸は会場から抜け出して麻雀をした。

② 同年八月、愛知核禁会議の関係者が書記局に電話したところ誰も出なかったのを、原告がたまたま居合せて聞いていたが、その直後女子書記局員に確かめると前記三階和室で麻雀が行なわれていて、居留守を使っていたことが判明した。

③ 書記局研修会と称して旅行が催されたが、中味は宴会と麻雀に終始していた。

④ 三階和室で麻雀が行なわれていたため、近接する教室で会議等をもつうえで験音のため業務上の支障を生じたため、教室使用中は和室の利用を禁止する旨の貼り紙が、同年一〇月二一日村山の名でなされるほどであった。

⑤ 同年末の衆議院議員選挙に関して愛知五区の渡会候補を支持しておきながら、吉田太郎が飲み食いしたり同候補側の人間を巻き込んで麻雀するなどしたため、同年九月民社党愛知県連の金子書記長から村山に対し抗議の申入れがあった。

以上のようなことを原告は見聞したが、電話や来客に対し、「会議中」などと称し女子書記局員に居留守を使わせることもしばしば行なわれた。

(3)  原告は、右のような役員総ぐるみと言ってよい程の賭博行為は労働運動の社会的地位の低下をもたらし、一般組合員に対する裏切りであると考え、まず、昭和四四年一一月二六日中警察署に書記局内部でのオイチョカブ賭博を申告し、同年一二月二日には警察官に通報して書記局に来てもらったが、オイチョカブの現場は押えられなかった。

その後、翌四五年になって、原告は警察官らの助言で証拠が必要だと考え、秘かに麻雀の点数表を収集し、同年八月一七日村山、星野、三戸を麻雀賭博で中警察署に告発するとともに、収集した点数表を証拠として提出した。(原告が麻雀の点数表を収集して右麻雀賭博の告発に及んだことは当事者間に争いがない。)

(五)  右告発の事実を知った被告は、まず村山書記長が前記全日本海員組合の小川に連絡して来名してもらい、昭和四五年八月二五日書記局内で右小川をして原告に対し、告発が事実か否かを糺し、原告が「知らない。」旨答えると、「選挙のことや、労働運動が大事な時に来ていることだから何とかしてくれ。告発は取下げよ。」などと原告に要望させた。また、同日午後朝見会長は原告に対し、「告発を取下げなければ解雇もあり得る。」と示唆し、「不正があれば是正する。」等と説得したうえ翌日午前一〇時まで取下げるかどうか回答するよう指示した。翌日二六日原告は朝見会長に「告発した事実が確認されていない。警察の調べが終ってから回答することにする。」旨答えた。さらに同月二七日、二九日には中野副会長から告発を取下げるよう説得を受け、同年九月七日には藤野調査部長、前記愛知一般同盟梶書記長が原告宅を訪れ、藤野が「悪かった。これからは絶対やらない。」と原告に謝まったので、原告は「全員がその気持ちなら告発を取下げてもよい。」と答え、藤野らは「幹部に報告する。」旨言って帰って行った。

翌八日休暇を取った原告は、九月九日に書記局に出勤して、被告構成組織の愛知地方金属、愛知一般同盟、交通労連中部地方本部、全化同盟中部地方本部の四産別から原告の事務所立入禁止及びビル管理業務からの解任の申入れが被告に対してなされていることを知った。そして同時に、同日以降自宅待機するよう村山書記長から命ぜられた。原告は九月七日に来訪した藤野、梶の所属する産別からも右申入れがなされていたことに愕然とし、告発を取下げる意思を失なった。(被告が原告に自宅待機を命じたことは当事者間に争いがない。)

(六)  被告は、同年一〇月九日第七〇回執行委員会において村山書記長からの提案により、原告から告発された事実の調査及び原告の書記局員としての適格性、取扱処遇について検討するため査問委員会を設置し、査問委員長に伊神副会長、査問委員に前記中野副会長ら六名の計七名の委員をあてることを決定した。

査問委員会は同年一〇月二一日を第一回とし、同年一一月二五日の第七回査問委員会まで合計七回開催された。一一月一日の第二回査問委員会においては、まず原告続いて村山、星野、三戸に対する事情聴取が行なわれた。この席に、原告は「申立書」と題する書面を提出して受理されたが、右申立書において、原告は、本件告発後の種種の告発取下げの強制や原告に対する身辺調査に抗議するとともに、賭博行為が如何に書記局を腐敗させていたか、賭博行為を放置することは被告の将来と労働組合員及びその家族に対して罪悪を犯すことになるという責任感が告発の動機であること、被告の将来のために査問委員会は公正で中立な審議をするよう訴えた。これに対し、委員の方から賭博の事実の有無、書記局の機能が麻痺していたか否か、原告自身責任を十分に果してきたか否か、何故事前に他の役員に相談しなかったか等の質問がなされ、原告はもみ消しを恐れて三役専門部長会議等に問題を提起できなかった、自分だけ自宅待機処分を受けたのは納得できない、等答え、委員側が慎重に検討するとして終った。次いで、村山書記長らに対する事情聴取で、同人らは常習的賭博行為はなく、勤務時間中に麻雀を行なったこともなく、書記局の業務は正常に運営されており、原告から何らの注意を受けたこともない旨答え、原告の書記局員としての適格性については、自己中心的・反抗的で文章能力もなく、一一事件を例に掲げて不適格であると答えた。

同月九日、第四回査問委員会において、再び原告に対する事情聴取がなされ、この席では原告自身のオルグとしての適格性についても尋ねられたが、原告は答える必要がないとした。次いで、同日、原告の事務所立入禁止等の申入れをなした前記四産別の藤野、梶、三ケ尻、安井に対する事情聴取でも、同人らは賭博の事実はなく、原告は直情的で激しやすくオルグとして望ましくない旨答えた。同月二四日の第六回査問委員会で事情聴取された岩見組織部長は、挙母タクシー事件等を例に掲げ、原告は勝手な行動が多く信用できないし、仕事に対して消極的であり、昭和四四年秋には原告に退職を勧告したことがあると答え、また、翌二五日の第七回査問委員会に呼び出された吉田正一ら五名も、賭博行為、特に会館内で又は勤務時間中に行なわれたことはなかったかとの質問に対して、いずれも否定した。

右第七回査問委員会において、本件告発は退職勧告を受けたことなどに対する原告の私憤によるもので、賭博行為や勤務時間中の麻雀の事実はなく、原告は性格的に短所が多く、全体の和を欠き、オルグとしても不適格であることを理由に、原告は書記局員として不適格であるので解雇するのが相当との結論が全員一致で確認された。

翌二六日査問委員会は右結論及び理由を朝見会長宛に答申し、翌二七日第七二回執行委員会において右答申を承認するとともに、同時に原告の教宣部副部長の職を解くことを決定し、翌二八日の評議会でも全員一致で原告の解雇が決議され、同日朝見会長は原告の解雇を決定して本件解雇に及んだ。

五  (本件解雇の効力)

以上認定の各事実を前提にして本件解雇の効力について検討する。

(一)  被告が原告のオルグとしての不適格性を象徴するものとして掲げたいわゆる一一事件中、前記三において認定した七事件のうち、柴原木造船事件、大治自動車学校事件はいずれも原告が全労に所属していた当時の事件で、しかも当時の内藤事務局長の指示により行動していたのであって、右各事件につき原告のみが責を負わなければならぬいわれはない。

また、被告のオルグ活動の中で惹起された挙母タクシー事件等五事件のうち、山崎鉄工労組事件は原告の酒癖の悪さを窺せるものとはいえ、同労組が被告に加盟しなかったことの責任が原告にのみあるとは考えられず、大東産業事件については、原告はむしろ騒ぎに巻き込まれたにすぎないとの疑問も存し、≪証拠省略≫によれば、被告自身原告を被害者であると主張していたのであって、いまさら掌を反すごとく原告を責めるのは無節操のそしりを免れえない。紙治事件、ホテイパン事件はいずれも原告の短気、粗暴な性格の一端を表わすものではあるが、紙治事件は原告の単なる不注意に端を発したものであり、また、ホテイパン事件についても、≪証拠省略≫によれば、原告はホテイパン従業員に対し労組結成のための核作りに努力していたことが認められるのであるから、原告の所為自体は十分責められなければならないが、原告が短気を起すに至った事情も理解し難いものではない。

次に、挙母タクシー事件は被告としても最も憂うべき事件であったと考えられ、原告が暴力を振ったことは十分に責めらるべきであるが、同事件はそもそも会社側の不当労働行為をその発端として起ったこと、現場にいた安井や吉田太郎が制止しなかったこと、原告のほかに挙母タクシー労組員も取調べを受けており、原告には自分一人が犠牲になればという気持ちもあったと推認されること等を併せ考えると、右暴力事件を単に原告一人の責任として非難するのは片手落といわざるを得ない。

以上、右の各事件は原告の短気で激しやすく粗暴な性格を窺せるものとはいえ、いずれも原告が労働者の団結を思う余りいささか常規を逸したもので、必ずしも、原告のオルグとしての不適格性を決定ずけるものとは解することができない。

(二)  原告が本件告発に及んだのは、第二回査問委員会で原告が前記「申立書」により訴えたごとく、被告及び被告に結集する労働者のために書記局内の風紀を是正することを目的としたのがその真意であったと推認せられ、前記四(四)認定の事実によれば、麻雀賭博は書記局内の大半の者が参加して行なわれており、原告が被告内部で問題提起しても到底採りあげられないと判断したのも無理からぬことである。しかも、≪証拠省略≫によれば、原告が本件告発にあたり岩見組織部長を告発の対象にしなかったのは同部長が地方選挙に出馬することを考慮したものであり、また、昭和四五年八月末に妨害をくぐり抜けて中部電力に集金人労組が結成されようとしていたため、中警察署に捜査は九月二日以降にして欲しい旨申出たとの事実が認められ、原告が被告の発展を願っていたのは疑う余地のないところであり、右告発が単に私憤によるものということはできない。

(三)  査問委員会においては、原告から事情聴取したとはいえ、前記四(四)認定の事実によれば、査問委員らが麻雀賭博の行われていた事実を全く予想できなかったはずがないと考えられるにもかかわらず、村山書記長ら関係者らの主張を鵜呑みにし、捜査の進展も待たずまして警察署に提出された点数表等の証拠を検討することも考慮しないで、本件告発は原告の私憤によるものと断定している。また、原告の性格的短所、特に協調性に欠けることを重視しているようであるが、その協調性の欠如もオルグ活動の場におけるものというより、他の書記局員との付合いが悪いこと、特に原告が麻雀に加わらずしかも被告外部の警察に告発した点がその判定に大きく影響していると考えられる。

(四)  ≪証拠省略≫によれば、原告は尾張担当オルグから書記局勤務に戻った後、昭和四五年四月九日第六六回執行委員会において教宣部副部長に決定されたが、この間名古屋大学で現代都市問題についての開放講座を受けるなど労働運動家として必要な知識の修得に努力し、同年四月一二日には第六回婦人のつどい愛知地方集会を開催するのに寄与していることが認められ、教宣部で熱心に業務に励んでいたものと推認される。

(五)  以上説示の各事情及び昭和四四年に被告は原告を書記局から一旦外部団体へ出そうとはしていたが、原告の解雇まで考えていたとは解せられないことを併せ考えると、本件解雇は、原告の性格的短所による書記局員としての不適格性が決定的な理由でないことは明らかである。即ち、被告の幹部が自らの姿勢を正し、同盟傘下の多数労働者の指導者としての自覚を持ったうえ原告に対する指導に当ったならば、原告はいわゆる同盟路線というものを十分認識、理解し被告を人一倍愛していたと思われるのであるから、原告の前記のような性格的短所を匡正することも可能であったと考えられる。しかるに、右のような努力をせず安易に本件解雇をなすに至ったのは、被告内部での賭博行為を原告が告発したことを組織の破壊に直結するものと把え、組織防衛のためには原告を排除するのほかはないとの意識が強く働いた結果であると解せざるを得ない。したがって、本件解雇は、解雇に値する相当の理由を欠いており、解雇権を濫用するものとして無効というべきである。

六(一)  前認定のとおり、本件解雇は無効であるから、原告は依然として被告の書記としての地位を有するものというべきところ、被告は本件解雇以後原告の右地位を否定し、その就労を拒否し賃金を支払っていないことは当事者間に争いがない。したがって、原告は民法五三六条二項により被告に対し賃金請求権を有するものというべきである。

また、被告の右態度からすれば、将来にわたっても賃金の不払は確実であると認められ、将来の賃金についても予め請求をなす必要が存すると解するのが相当である。

(二)  原告の賃金が月額六六、〇〇〇円であり、その支給日は毎月二五日であることは当事者間に争いがない。

(三)  前記のとおり、原告は昭和四五年四月九日第六六回執行委員会において教宣部副部長に決定され、同年一一月二七日第七二回執行委員会で右副部長職を解かれたのであるが、右副部長解任は本件解雇を唯一の理由とするものと認めるほかはなく、したがって、本件解雇が無効である以上右解任の決定も無効というべく、原告は依然として教宣部副部長としての地位を有すると解するのが相当である。

(四)  なお、原告の申立(請求の趣旨)記載中(二)は、明らかに原告の過去における地位の確認を求めるものであり、現在の法律関係に何らの影響を及ぼすものと認められないから、確認の利益を欠き訴却下を免れない。

七  以上説示のとおり、原告の本訴請求のうち、原告が被告の書記及び教宣部副部長の地位を有することの確認、並びに、賃金及び賃金に対する各支払期の翌日から完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める請求は理由があるのでこれを認容し、執行委員の地位にあったことの確認を求める請求は不適法として訴を却下し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条但書を仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小沢博 裁判官 八田秀夫 前坂光雄)

<以下省略>

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